映画監督呉念真氏の来日記念講演
本稿は平成17年2月20日にホテル センチュリーハイアットで行われた「日本台湾医師連合特別講演会」(主催・日本台湾医師連合)における映画監督呉念真さんの講演録です。
(文責・日本台湾医師連合)


生きて行く台湾――人々の暮らしの観点から
(日本統治時代~現代)
私は簡単な日本語しかしゃべれません。皆さん、こんばんは。今日はここに来ることができて非常に嬉しいです。さっき聞くのを忘れましたが、北京語で講演したほうがいいですか。それとも台湾語でしたほうがいいですか。台湾語ですね。台湾語の場合、映画に関する言葉は田村さんには分かりづらいかもしれないと思って。まあ、台湾語でも構いませんが…。今日は長い内容を準備してきたのですが、時間の制限があるため、簡潔に話すことにします。さきほど数えてみたのですが、「父さん」という映画を作ってちょうど十年目を迎えます。私にはそれに関する思い出がたくさんあります。父は一九九〇年に、この世を去りました。一九九一年の正月、私は東京に来ました。
私は一九九一年の正月、ある機会で東京に来ました。母は私にこう言いました。「あなたの父さんは東京に行きたかったが、ずっと機会がなかった。今回の機会を借りて連れてやったら」と。母は父の写真を用意して、その後ろに台湾の冥紙(死んだ人があの世界で使うお金)をつけて私に渡しました。父のお陰かどうかはわかりませんが、飛行機が東京に近づいたとき、ちょうど着陸する前、富士山が目の前に現れました。夕日に包まれてとても美しかったです。
私は父の写真を手荷物に入れました。手荷物のチャックを引くのを忘れたせいか、通関するとき、若い職員に、「何か申告するものはございませんか」と聞かれました。私は「いいえ」と答えました。彼は荷物を検査するとき、その写真を見て、「これは何でしょうか」と聞いてきました。急に聞かれたので何をどう説明すればいいのか分からず、しばらく間をおいてこう答えました。「これは父です。これは彼の魂です」と。それで、彼は深々と父にお辞儀をしました。それは私が彼に「父はずっと東京の皇居と富士山を見たかった。しかしその願いも叶わないまま亡くなったので、連れて来ました」と説明したからです。
私は、それに非常に感動を覚えました。そしてこう思いました。彼のお辞儀は、父へのものではなく、台湾の歴史におけるあの世代の人々に対し、自分の心を表明しようとしたお辞儀なのだと。
私はよく、「『父さん』を撮ったのは、あなたのお父さんを記念するためですよね」と聞かれます。そのつど私は簡単に「はい」と答えているのですが、しかし私の多くの友人はみな知っています。私がこの映画を書いたきっかけを言いましょう。李登輝が初めて大統領に就任したときのことでした。皆さんご存知のように、昔は旧暦のお正月になると、大統領は必ずテレビに出て、全国の同胞に向って演説しますが、李登輝が大統領になった年に、彼は台湾語で演説しました。そのとき父は涙を流しながら、「台湾人がやっと大統領になった」と言いました。
このような世代の人々を、我々はこれまで大いに誤解し、軽視し、批判してきました。そこでその世代のためにこの映画を撮ろうと考えたのです。
李登輝が大統領になって間もなく、記者を務める私の多くの外省人の友人たちは新聞でこう言い始めました。「李登輝の北京語は、どうしてそんなにめちゃくちゃなのか」と。それは彼の文法が北京語の文法とはだいぶかけ離れていたからです。たとえば、先に話すべきところを後にし、後にしゃべるべきところを先にするといった具合です。そのため記者らは毎日、「北京語がどうしてこうなるんだ」と罵ったわけです。
そのとき私は突然わかったのです。「なるほど、私の義理の父がしゃべっている北京語も全く同だ」と。義理の父は早稲田卒ですが、北京語はめちゃくちゃな表現がほとんどです。それは日本語が教育上の言語で、母語が台湾語である彼らにとって、北京語は外来語だからです。ゆえに李登輝は記者から北京語で質問されると、必ずそれを日本語に訳し、日本語で質問の意味を理解してから、日本語で回答を考え、そしてそれを北京語に訳して返答していたのです。
あたかも我々の英語が下手で、あまり達者じゃないのと同じようなものです。あるアメリカ人が我々に、Where are you going tomorrow?(明日、どこに行くのですか)と聞き、それに対して、I go to Yokohama tomorrow.(明日、横浜に行きます)と答えるとしましょう。このような訳し方はまだ通じます。アメリカ人にはまだ分かります。しかしちょっとした複雑な英語の翻訳文になると、文法は必然に乱れてしまうのです。外国人には通じるかもしれませんが、その文法、そのしゃべっている英語は、「どうしてそんなにおかしいのか」と思われることでしょう。若い外省人の記者らは、彼らの歴史的背景に立ち入ってそれを理解したことがないわけです。彼らは、この人たちが生まれてからずっと日本教育を受けたということを見逃していました。一夜にして中国人にならなければならなかったことを見逃していました。彼らは完全にその歴史を忘れてしまったので 父はあまり教育を受けなかったが、彼が言った名言を、私は今でも覚えています。それは、私が中学を卒業してから、台北へ仕事に行くときのことです。私は在学中、成績がよかったので、父は「台北へ仕事に行くのはもったいない」と惜しんでいました。そして私を慰めるために、こう言いました。「そんなにたくさん勉強したって、時々役に立たない場合もある。『あいうえお』が一夜にしてㄅㄆㄇに変ってしまったように」と。
両親は我々子供たちに知られたくないことは、全部日本語で話しました。我々もまた、両親に知られたくないことがあったら、北京語をしゃべりました。父はよく「日本はいい国だ、すばらしい国だ」と口にしていました。またよくNHKのラジオを聞いていました。仕事が終って家に帰るとNHKを聞くというのは彼の日課でしたから、NHKラジオの音楽を、私は今でも覚えています。父は放送を聞き終えると、必ずそれを訳して我々に説明しました。そして日本は現在どうこうだとか、日本はいい国だ、すばらしい国だというのです。すると妹は必ず、「漢奸だ」といいました。私の場合はだんだん大きくなるにしたがい、やはり同じ男として、父の世代の気持ちを理解し始めるようになりました。
そして常に思うのは、その世代は台湾で最も寂しい世代であるということです。私はある日、日本人と話すチャンスがありました。私は彼らに、「あなたたちはいつもアメリカ人がベトナム戦争に行き、多くの戦争孤児を残したと笑っていますが、日本がアジアの多くの国々を占領したとき、多くの文化孤児を残したということを考えたことはありませんか」と言いました。
台湾にとって、さらに悲哀とでもいうべきものは、引き揚げた日本人のあとを継いで台湾を占領しに来たのが中国だったことです。中国は日本との敵対関係が最も激しかった国家でした。中国は、基本的にはほかの国々を理解しようとする気持ちを持っていますが、日本に対してはそうとは限らないのです。たとえば、前のサッカー試合(二〇〇四年のアジアワールドカップ)を見ればわかります。中国は日本との試合では、何としてでも勝ちたいのです。もし中国が負けたら、どんな態度に出るかは想像に難くありません。
次の新しい統治者に直面した李登輝や義理の父、そして私の父の世代の歴史と悲哀を、その次の世代に理解させることは非常に難しいと思います。しかし我々が認めざるを得ないのは、台湾は近代の歴史において二つの国から大きな影響を受けているということです。つまり一つは日本であり、一つはアメリカです。
私はずっと前から、映画や文学のような表現で、より広い心をもって、あの世代と、現在において影響を受けている我々の世代とを理解することを試みてきました。私は初めて映画を撮影したとき、すぐ頭に浮かんできたのが「父さん」という映画を撮影することでした。すなわち、歴史で忘れられた彼らの世代のことです。そこで映画のタイトルも「父さん」と名付けたのです。この映画の英文タイトルはA borrowed life、つまり「かりそめの人生」でした。なぜなら、彼らの世代は、どこの国家に生まれるかはすでに決まっており、自らは選択できなかった。教育の仕方も決められており、自らは選択できなかった。ある日、他の国の国民になるということも、自らは選択できなかった。このようにすべての過程において、彼らは自らの意志で選択するということができませんでした。さらには、彼らが年を取るにつれてもたらされた、次の世代との衝突、文化や歴史のアイデンティティーでの衝突すら、そこから逃れることはできませんでした。そこで私は、この映画を通して、我々に誤解されたあの世代の人々のことがはっきりと認識されることを望んだのです。
一つの例を取り上げましょう。我が家にテレビが入ったのは一九七五年で、それ以来、父は毎日テレビをつけました。当時は三つのチャンネルだけでしたが、どれも北京語の番組ばかりで、父にわかるわけもありませんでした。見てわかるのは女性向けの番組で、それは台湾語のドラマや歌仔戯でした。父がテレビをつけるたびに我々がいつも驚かされたのは、いつも不満げに力いっぱいテレビを敲くことです。父はテレビを消すたびに、「死んじまえ」と怒りあらわしていました。
ある日のことです。記者が鉱山労働者をインタビューするために、わが家を訪れ、父に一枚の名刺を渡して、「聯合報の記者です。鉱山労働者のインタビューをしたいのです」と。皆さん、父はそれにどう答えたと思いますか。こう言ったのです。「台湾には公論報が発行禁止にされて以来、新聞なんかもうなくなったはずだ。記者という職業がどこにあるのか」と。
ですから、時々こう感ぜざるを得ないのです。彼らは歴史的生命、あるいは文化的背景のため、寂しい世界にしか生きることができなかったのではないかと。
それにひきかえ、父たちとは異なる立場の人たちがいます。私が非常に面白いと思う人たちです。それは台湾文化を守り、そして台湾が歴史過程で受けた異民族文化を守ってきた人たちです。この非常に偉大な人たちは、すなわち現在台湾にいる、七十か八十歳のお婆ちゃんたちです。
最近、皆さんはよく台湾文化の問題を話しています。それに関して、学者たちはみな難しい学術論文を書いています。台湾文化はいったいいかなる文化なのか、どういう文化であるべきかなどを難しく書いています。しかし、文化は私にとって、ただ単なる生活における種々の表現形式にすぎません。
日本教育を受けた父の世代は堅苦しくて頑固であるのに対して、台湾のお婆ちゃんたちは非常にやさしいのです。彼女らはやさしく台湾の文化を包容し、かなり自信をもってそれを包んできたと、つくづく感じています。
ここで私の義理の母を例に取りましょう。彼女は日本統治の時代は高卒で、一応エリートです。彼女は義理の父と話すとき、ほとんど日本語と台湾語を使っていました。彼女は北京語を勉強しなかったです。それは、彼女は北京語が自分には関係ないと思っていたからです。ところがある日、彼女は北京語の勉強を始めました。なぜなら、だんだん大きくなった孫たちが、国民政府の教育によって北京語を話すからです。教育のみならず、テレビでさえもみな北京語です。周りの環境はすべて北京語なので、孫たちはあまり台湾語を話せないのです。
私が最も尊敬している李鴻禧教授はかつて、「お父さんたちは台湾のために命を賭けているのに、その子供たちは全く台湾語を話せない」と言ったことがあります。お爺さんは孫たちと話すとき、いつも簡単な北京語しか話さないのです。孫たちは台湾語が話せないから、お爺さんも孫たちとの会話を断念せざるを得ません。しかし、お婆ちゃんは違います。お婆ちゃんは孫たちと話すために、一生懸命に北京語を勉強したのです。
しかし、義理の母は北京語の勉強がよくできているかというと、そうでもありません。ただ彼女自身は非常に自信を持っています。ちょっとした勉強でも、自分はよくできていると思っているのです。ある日、義理の母は生け花の講座に参加しました。講座を申し込むときに、まずアンケートに記入するのですが、そこには「言語」という項目があります。彼女はそれを見て、「日本語と台湾語が話せる」と書きました。北京語については「普通」と書きました。彼女は自分の北京語はどこに行っても通じると思っているのです。だから役所に用事で行っても、彼女はいつも自分の北京語で職員としゃべるのです。先月、義理の母と一緒にテレビを見ていたとき、陳水扁がしゃべっているのを聞いて、彼女は私にこう言いました。「陳水扁はどうして台湾語なまりの北京語を話しているの」と。
近年、台湾の変化は非常に大きいものがあります。義理の父は十一人の子供に恵まれています。男は六人で、女は五人です。子供のほとんどは海外にいます。特にアメリカです。アメリカに住んでいる甥や姪たちは大きくなり、毎年の夏休みはほとんど台湾に戻り、私と一緒に遊んでいます。それは、私が彼らの父のように厳しくないからです。彼らは叔父さん子で、よく私の家に泊まるのです。ある時期、私はよく彼らにバーゲンのことを教えていました。台湾のバーゲンは海外と違って、七折と書いてあるが、実際三割しか引いてくれません。三折の場合は、つまり七割引です。このようなバーゲンの話は、何年間も続いていたのです。
彼らのお婆ちゃんは、今度アメリカに生まれ育った孫たちと接触せざるを得なくなりました。アメリカに生まれ育った孫たちは、台湾語はむろん、北京語でさえ思うように話せません。最も上手なのは英語です。はたして、お婆ちゃんはどうやって彼らと話すのでしょう。義理の父は「おはよう」という英語しかしゃべられません。彼の場合、「おはよう」の一言で済みますが、お婆ちゃんの場合は違うのです。お婆ちゃんは孫たちの名前を呼ぶとき、彼らの名前を覚えなければなりません。しかし、孫たちの名前は全部外国の名前です。彼女はそれを覚えるのがおっくうでした。しかし、彼女はそれを克服して、自らの独特な呼び方で彼らの名前を呼んでいます。
たとえば、トニーという孫には、いつも「トニーア」と呼ぶのです。トニーアは、台湾人が人の名前を呼ぶときの言い方です。台湾には、名前の後ろに「ア」という音をつける習慣があります。彼女はこのように台湾の習慣で孫たちの名前を呼ぶのです。マイコという孫がいます。お婆ちゃんはマイコという名前を覚えられないから、勝手に文字をつけてマイマコというふうに呼ぶのです。音をつけて呼ぶ場合もあれば、意味をつけて呼ぶ場合もあります。マイコを呼ぶ場合は後者に属します。
彼女は、こういうふうに人の名前を呼ぶのが間違っていると思っていません。なぜなら、彼女は自信があって、これを包容したからです。ある日、彼女は我々娘婿を自宅に呼んでマージャンをやらせました。娘婿の中では、外省人もいれば台湾人もいます。彼女は日本教育を受けた女性なので、いつも娘婿たちが仲良くしてほしいと思っているのです。大人が来たら、もちろん子供も一緒に来ます。大人たちがマージャンをやっているとき、子供たちはドンチャン騒ぎです。そこでお婆ちゃんは子供たちを外に連れて行きました。
彼女は七、八人の孫を外に連れ出して、二時間くらい経ってから戻って来ました。子供たちは帰った後も、英語をしゃべりながら大騒ぎを続けました。それを見たお婆ちゃんは怒り出しました。彼女は子供たちの一人を呼んで台湾語で、「きみは悪い子、きみは悪い子」と怒鳴ったのです。マージャンをやっている我々はその怒鳴り声を聞いてみんな笑っていました。彼女は子供にこう怒鳴ったのです。「きみはハンバーグも食べたし、ホットドッグを食べたのに、今com何plain(文句をいう)をしているのか」と。
彼女はcomplainという文字を二分にして、真ん中に何という言葉を入れたのです。Com何plainというふうに、台湾語と英語を併用したのです。私はそれを聞き、ほかの三人に「お母さんは新しい名詞を発明したね、ほら、あのCom何plainという言葉。これは将来きっと台湾の一部分になるでしょう」と言いました。
我々は彼女のやり方を、つぎのように理解できるのではないでしょうか。つまり、一つの国家、あるいは地域は、自分に自信を持つようになったとき、あらゆる外来文化を自らの文化の一部分にすることができるということです。しかも、自由にそれらを駆使して全く恥ずかしいとも思わずに。
つまり、台湾の新しい文化もこのように生まれてくるのです。外来の言語にせよ、文化にせよ、いずれもこのように台湾文化の一部分となっているのです。これらの文化は決して学者やエリートたちによって規定せられるものでもなければ、統治者によって規制せられるものでもありません。
我々のしゃべっている台湾語をよく観察すると、その中にはたくさんの外来語が入っているのに気付きます。たとえば台北市内でタクシーを利用するとき、運転手さんに「今日の走りはいかがですか」と聞くと、大体「アタリがいい」と答えるのです。さらに「毎日そうなんですか」と聞くと「チャンス、チャンス」と答えるのです。「アタリ」「チャンス」はすでに台湾語の一部分となっているのです。同様に、台湾語の多くも、現在北京語の一部分となっています。たとえば、「当選」「落選」などがそれです。
これらを見れば、このように考えることができます。つまり、我々は自分に対して自信を持つようになったら、たとえ外来のものでも自分のものとして、まったく恥ずかしさも感じることなく利用することができると。そして外来のものに対して泰然自若としていれば、我々の中に自然に新しい文化の命が宿るのだと。
一つの例を挙げましょう。三年前、私は撮影で屏東の排湾族(パイワン族)の村に行きました。本来、台湾の原住民は、あまり自分が原住民であるということを知られたくなかったのです。だからつねに自らの出自を隠していました。たとえば、私が一番反感を抱く原住民議員・金素梅という方がいます。彼女はもともと俳優でした。昔、彼女のことを原住民だと言ったら、彼女は必ず怒るのです。しかし、皮肉なことに、彼女は現在、原住民の代表者となっています。
 台湾では、だんだん文化の多元化にしたがって、原住民の地位も昔と比べられないほど向上しています。そして人一倍自らの出自を誇りに思っています。もちろん現在では原住民はみな自信をもって自らの言葉をしゃべっています。私が屏東の排湾族の村に撮影に行ったとき、彼らのラジオ放送に注意を払いました。昔、村長がラジオを放送するときは全て北京語でしゃべりました。ところが今では原住民精神を強調するために、全部原住民の言葉でしゃべっています。しかし、彼らの言葉は私には大体分かるのです。なぜなら、その中にたくさんの外来語が入っているからです。たとえば、先生(医者)、病院などです。これらの言葉は日本統治の時代に入ったもので、今では彼らの言葉として使われているわけです。
 ある日、私が朝七時くらい起きて、村長の放送を聞きました。彼はこう言いました。「ア~ブラブラベラベラ…十時。ア~バラバラピラピラ…身分証明書。オ~ピカピカブカブカ…民衆サービスセンター。ア~ティラティラゾラゾラ…肛門検査です」と。このように、わけ分からない話の中に、たくさんの外来語が入っているのです。なぜ、彼らの言語世界はこうなっているのかというと、彼らは自分に対して自信を持っているから、外来のものも自然と自らのものになっているからです。
 私の友達はよく、「台湾は幸か不幸か、本当によくわからない」と言います。父もかつては似たような話をしたことがあります。彼はこう言いました。台湾は地理的に大陸、あるいは日本に近づいたほうがいいものを、なぜ両者の間に位置しているのだろう。こんな地理に置かれたからこそ、多くの国々によって蹂躙されたのだ。これは台湾にとって幸運なのか不幸なのかはよくわからないが、その後さまざまな文化が自然に残る。蹂躙された後、確かに廃墟になるに違いないが、それに続くのは百花斉放ではないだろうか」と。
 台湾の地名を少しでも研究すれば、すべての地名にその歴史と由来があることが分かります。それぞれにストーリーがあるのです。たとえば、台湾の北部に三貂嶺という地名があります。昔、外省人の先生が我々に教えるとき、こう説明しました。「なぜ三貂嶺というのかというと、それは山に貂が三匹いるからです」と。皆さんの知っているとおり、貂は寒いところにしかいません。台湾はこんなに暑いのに、どうして貂がいるでしょうか。いるとしたら、それはきっと怪物に違いありません。そしてその後ずいぶんあとになり、私はやっと分かったのです。この地名はスペイン人がそこを占領したときに付けたものだったのです。当時の名はSan Diego(サンディエゴ)でした。皆さんは自分で調べたらすぐ分かることですが、スペインによって名付けられたSan Diego(サンディエゴ)というところは、世界で百を超えています。たとえば、我々がよく言うFormosa(フォルモサ)、つまり麗しい島は、二百を超えています。基隆(キールン)に、三沙湾という地名がありますが、それはサンサルバドルから来たものです。
 もちろん台湾を占領した日本人も多くの地名を残しています。たとえば、最も有名なのが高雄です。もともとは打狗(タカオ)であったのが高雄になったわけですが、これは面白くないです。東部に非常に優雅な地名があります。舞鶴です。鶴が舞い上がっている姿を地名にしているのです。これらはすべて日本人が名付けた地名です。
 中国人が来台した後、さらに中国めいた地名や道の名前が増えました。たとえば、中正路、中山路、復興郷などです。アメリカの影響力がだんだん台湾に進出しているとき、ルーズベルトという道の名前も出て来ました。台北を見ればわかるように、これらの地名や道の名前は、色々な時代のものがすべて融合しています。たとえば、大稲埕という古い地名があります。それに西門町が加わっています。現在では、ワーナー(映画館の名前)というのがあります。  民衆も当たり前のように、これらの地名を使っています。昔は統治者の要求に応じ、彼らの望むとおりに地名は改められました。しかし現在では逆です。民主化以降、文化の形成は民衆によって行われ、あらゆる変革も上から下ではなく、下から上へという形で展開するケースが多いのです。したがって、地名の改変も、もはや昔のようなことはあり得ません。
 しかし、別の視角からみれば、このような変化は時々我々に一種の寂しさを与えてくれます。つまりあの世代の人々の寂しさです。ある日、私は義理の母と一緒に日本のテレビ番組を見ていました。彼女はほとんど日本のテレビ番組しか見ません。特にNHKです。すると彼女は突然、「あの女は一体何をしゃべっているの」と私に言ったのです。それは話の中でcommunication(コミュニケーション)という言葉が出たからです。それで「あの女は一体何の日本語をしゃべっているの」と。私は「お母さん、あの女性は日本人だよ」と言ったのですが、彼女は納得いかないようでした。そこで私は「あの言葉の英語はcommunicationであり、話し合い、交通など意味があるんだ」と説明したのですが、そのとき私は初めて彼女の寂しく悲しい顔を見たのです。なぜなら、以前なら日本に関する話は、すべてあの世代の人が我々に解釈してくれていたからです。つまり、解釈の特権は彼らにあったのです。だから彼女は、次の世代の知っている日本のものは、もはや自分には分からなくなっていると気付いたのではないでしょうか。
 お正月になると、アメリカの子供や孫たちは必ず台湾に戻るのですが、義理の母は最近、体の具合が悪いにもかかわらず、子供や孫たちに台湾の景色を見せるため、わざわざバスをチャーターして旅行に出掛けました。一行は二、三十人もいました。私はちょうど用事があったので、一人で家で本を読んでいました。一行が戻ると、その中の一人が私に「お正月は何をして過したの」と聞いてきました。私は「大体本を読んでいたよ」と答えました。「何を読んだの」「面白かったの」と聞くので、「村上春樹の『アフターダーク』と宮部美幸の『火車』を読んだ。宮本輝の『流転の海』はまだ途中だ」と答えました。そして「村上春樹の作品は面白くないから、買うまでもないよ」と話したら、義理の母からこう言われました。「昔は私たちが日本の本を読むと、すぐ漢奸と呼んだくせに」と。さらには「日本の本を読むばかりか、日本の漫画を買って、テレビドラマを作っているなんて、本当に笑ってしまうね」と皮肉まで言われました。それは私の会社が弘兼憲史の漫画を買って、それのテレビドラマを作ろうとしていたことを言ったのです。
 統治者の文化政策がすでに機能していないことに気付いたならば、つまり、上から下への文化政策より、下から上への改革気風の方が強いという現実に気付いたならば、我々はより自信を持つことができます。そしてさらに進んで外来の多くのものをも自分のものにすることができると思います。
このことを理解できるなら、次のようなことも容易に納得することができるでしょう。すなわち、劣等感を持つ、自らの文化にコンプレックスを持つ国は、他国の文化を摂取する際、往々にしてそれらの文化を拒否することなく、取捨選択なしで全面的に受け入れがちであるということです。もし、自民族に自信を持つようになったら、我々は自らが摂取してきた外来文化の良し悪しを主体的に取捨選択することができるはずです。
 台湾の現在における最も大きな問題は、当時の統治者が残した二つの極端な文化政策です。台湾に亡命に来た統治者は強い反日感情を持っていたため、台湾に残る日本文化を全面的に排斥しようとしました。しかし、その後、強力なアメリカ文化に直面すると、彼らはそれを拒絶せず、全面的に受け入れたのです。よく注意すればわかるように、台湾の留学生の行き先はほとんどがアメリカです。留学生の八割はアメリカに行くのです。彼らが吸収したアメリカ文化は、彼らの帰国などによって台湾にもたらされました。そしてこのアメリカ文化の導入は、ほとんど主体的な取捨選択を通さずに行われたのです。
 一つ例を挙げれば、皆さんがあまり気付いていないかもしれませんが、台北市は狭いにもかかわらず、道は日本よりも広く、二車線の道で四台の車が走ることができます。なぜならそれはアメリカの基準にしたがって作られたからです。ですから、駐車場も日本と比べるとずっと大きいです。二つのスペースに車を三台泊めることができます。もっとも恐ろしいのは建築です。アメリカの気候は大陸気候のため、あまり雨が降りません。ですから、アメリカに建築に学びに行ってきた人が家を建てるとき、往々にして雨を遮るひさしをつけないのです。台湾はよく雨が降ります。雨が降ったら、必ず家の窓や門にかかってしまうのです。もし、家にひさしがついていたら、雨はかかって来ないはずです。アメリカで建築を学んだ建築家はひさしの概念を知らないため、大体家を建てるときに、それをつけないのです。皆さんも知っていると思いますが、台湾の建材は大体アルミ製の窓や門を使います。家全体は大体コンクリートによって建てられます。もし、ひさしをつけないと、いかなる綺麗な家でも、あっという間にだめになってしまいます。
 台湾の家の壁は大体ペンキを塗りますが、長い間雨に侵食されると自然に剥がれ、なかのコンクリートも出て来ます。そこで台湾人はだんだん自分で家にひさしをつけるようになります。しかし建築家でも何でもない一般の人はそうしていくうちに、家の綺麗な外観を壊してしまうのです。以上の例で私がつくづく感じるのは、我々の生活文化に対する理解がどれくらい大切かということです。
 ある日、私は外省人の友達に「私は父が亡くなるまで、あまり彼と話さなかった」と話すと、彼は「あなたの幼少時代は、きっと楽しいものではなかったのでしょう」と言いました。なぜ彼はそう断言したかというと、それは彼が常に自らの規準で私を見ているからです。台湾における外省人のお父さんはよく子供と遊びます。もし父が私のような大の大人に、急に親しく接してきたならば、私はきっと「父はどうかしてる」と思うことでしょう。人間は教育背景の異なりにより、みなそれぞれ性格が違うのです。この前、台湾の若者が書いたテレビドラマの脚本を読みました。それを読んで私は思わずに笑い出してしまいました。なぜなら、彼らが書いたあの時代の台湾人は、台湾のどこにもいないものだからです。
 もう一つ例を取り上げれば、両親の世代はよく口喧嘩で愛情を表現します。父は五十歳前後でだんだん体が弱くなり、あまり仕事ができなくなりました。そして夜はよくマージャンに出掛けました。ある日、雨が降ってきて、びしょ濡れで帰ってきた父が慌てて家に入ってきました。夜中、ちょっとした音でも聞こえるから、母はすぐ起きてタオルを渡しに行ったのです。渡したとき、父にこう言いました。「あんた、死んだほうがいいよ」と。父が体や髪の毛を拭いているのを見て、母は再びこう怒鳴りました。「病気になるのはあなただけど、看病するのはいつも私たちです。あなたはただ病床にいればいいでしょう。看病するのはどうせ私たちだから」と。そのとき、ちょうど私も家にいたから、わざとこう言いました。「息子がもし台北だったら、あなたを見舞うために休みを取らなければならなかったでしょう」と。それを聞いた父は、タオルを放り投げて、「畜生」と言い捨てたのです。この「畜生」という言葉は、「わかったよ、お嬢さん。タオルありがとうよ」という意味です。私はいつも外省人の友達にこう言っています。
 それもまた一種の感情表現です。我々はそれを理解しなければなりません。私は最近よくあの世代の人を理解したうえでものを表現しています。私は今でも中学に合格したときのことを覚えていますが、私は村で初めてトップクラスの学校に合格しました。そこで里長は村で放送をしました。それを聞いたある村民は父に「おめでとう」とわざわざ言いに来ました。すると父は「小さいときは偉いかもしれないが、大人になってどうなるかはわからない」と答えました。
 ある朝、目が覚めた私はテーブルに真新しい万年筆が置いてあるのを発見し、きっと父が昨夜買ってきたものだろうと思いました。父はまだ寝ており、起すことも怖かったので、子供の間で「あれは誰のために買ってきたのだろう」などと話していました。妹が万年筆をゆすりはじめると、「お前は何歳だと思ってるんだ。万年筆を使うなんて」と奥から父の声が聞こえました。
 そのときはやっと分かりました。あれは父が私の合格祝いのために買ってくれたものだったのです。彼は言葉で褒める代わりに、プレゼントを買ってくれたのです。私はそれをもらって喜んで開けようとすると、父は「それは高いからね。もし壊したら、知らないぞ」と言うのです。このように、人はそれぞれ感情の表し方が違います。どこのどの民族もそれぞれ受ける教育が異なるから、その感情表現の仕方も当然同じわけがありません。我々は相手の気持ちを理解し包容しなければならないのです。私はいつもそのように思うのです。
私は今年、ある電気会社からテレビのコマーシャルの仕事を依頼されました。私は社長さんに、さきほど話したような感情の表現でコマーシャルを制作したい旨を伝えました。彼からは「そのようなやり方で消費者に伝わるのだろうか」と言われましたが、私は「やってみようではありませんか」と言いました。
 その電気会社はテープレコーダーを売るために、無期限の修理保障をつけています。そこで私は次のようなコマーシャルを制作しました。
ある田舎の子供がお父さんの留守中に、勝手にテープレコーダーをつけて踊り始める。そこへお父さんが帰って来た。その気配に気付いた子供は慌ててテープレコーダーを消そうとしたが、壊してしまった。そこで子供は何事もなかったかのように、自分の部屋に戻って勉強しているふりをするのだが、お父さんは家に入った途端、子供に向かって「ろくに勉強もしていないくせに、毎日一体何をしてんだ」と怒鳴る。それを聞いた子供は自分の成績をお父さんに見せる。成績はかなり優秀だが、お父さんはそれを見ても褒めもしない。何日か経って、お父さんはその電気会社のテープレコーダーを買って来て、それをテーブルに置き、子供にこう言う。「これは高いからな。もし壊したら、知らないぞ」と。それを聞いたお母さんは「それは全国電気の商品ではないの。無期限の修理の保障が付いてるんでしょう。だから壊しても平気よ」と話す。するとお父さんは「その話はよせ。今子供を教育してるんだから」と言う。コマーシャルの内容は大体こんな感じです。
 このコマーシャルを見た台湾人はみな私に「本当に面白いですね。うちの父もあんな感じですよ」と言うのです。しかし、外省人が制作しているラジオ番組New98は、このコマーシャルを「これは台湾の亭主関白だ」と酷評していました。
 この経験は我々にいい教訓を与えてくれました。つまり、より広い胸襟で自信をもってすれば、我々は自らの歴史における過ちを反省することができるのということです。だとすれば、我々はあらゆるものを受け入れることができるようになります。もし自らの心を閉ざして他者と接触しないようにすれば、我々は永遠に他者の悪いところしかわからず、永遠に他者のものを拒絶するだけです。台湾は長年にわたる努力の結果、少数の権力者が大多数の民衆を統治するという政治体制はなくなりました。時代は次第に変りつつあり、台湾におけるどの民族も、みな台湾の指導者になることができます。したがって、我々は自らの胸襟をより広く開くべきではないかと、私は常に思うのです。
 先月、私はバンクーバーに行きました。そこには(在カナダ台湾同郷会の)台湾カナダ文化基金会というものがあります。私はこの基金会をかなり評価しています。この台湾同郷会はよく文化活動を行い、台湾文化をカナダ人社会にかなり紹介しているのですが、そこが開いた座談会で、私は彼らから「中華を取り除く」という問題を突きつけられました。彼らはこう質問しました。「外省人は台湾の米を食べ、台湾の水を飲み、台湾にそんなに長く住んでいるにもかかわらず、どうして中国大陸のことを忘れられないのでしょうか」と。そこで私は彼らに「あなたたちはカナダに何年くらい住んでいますか。おそらく、五年の方もいれば、十年の方もいるでしょう。もっと長く住んでいる方もいるはずです。あなたたちもいつも台湾のことを思っているのではないでしょうか。我々は、同じ気持ちをもって彼らの気持ちを思えば、すぐ理解できるのではないでしょうか。誰もが心の故郷を持っているはずです」と言いました。
 台湾人が大統領になってから、我々はだんだん自信を持つようになり、何年間にもわたる政治闘争を経験してきました。台湾にとって、私から見れば台湾は現在、全く新しいスタート地点にいます。たとえば、選挙です。台湾にはたくさんの選挙があります。台湾人の選挙に対する観念も、時代によって変りつつあります。昔、立法委員の選挙、あるいはさまざまな地方選挙のとき、必ず大きな看板を街中に立てました。そしてその看板にはきまって清廉、果敢などの文字を書きました。しかし私はいつも候補者にこう言いました。「清廉なんか、当たり前のことです。果敢なんて、誰もがそれくらいの器を持たないといけません。これらを長所というならば、誰でもいいのではないでしょうか」と。
 私はよく彼らに「宣伝のフレーズをもうちょっと面白く書くことができませんか。選挙なんか、そんなに大したことではないですよ」と言います。そして「子供にちゃんと教育しないと、言うこと聞かなくなるよ、陳水扁をちゃんと監督しないと、国はだめにしてしまうよ、というふうに書けませんか」と言うのです。
 悲哀はすでに過去のものです。我々は自信をもって自らの品格を高め、あらゆるものを主体的に受け入れることによって、よりすぐれたものを作ることができるのです。我々は今からこのように信じなければなりません。
 台湾では、生活という言葉に、二つの読み方があります。私にとって生活とは、ただの日常生活です。たとえば食事をすること、寝ること、働くことなどです。それは非常に淡々とした幸福です。生活はこんなにも簡単で幸せなものです。しかし、台湾の中南部では生活という言葉を、生死という意味で使っています。つまり生活とは、生きることと死ぬことです。生死となれば、生きることとはどんなに苦しくて難しいことかという感じを与えてくれます。人間は生きるために、毎日命がけだという印象を私は感じるのです。しかし、このような感じは台湾にとって、すでに過去のものとなっています。私は、台湾の人々が今後淡々とした日常生活を送ることができるよう、心から望んでいます。我々がもし現在、自信をもって過去の悲哀を捨て去って未来を切り開くことができたならば、これらの努力はきっと我々の次の世代において報われることができるだろうと思っています。
 私は民進党が初めてテレビのコマーシャルを作る許可を得たときのことを覚えています。当時、その仕事を引き受けたのは私だけでした。制作過程では黄信介さんにもインタビューをしました。黄信介さんは非常に面白い方で、彼は言った話は今でも忘れられません。当時はまだ国民党がやりたい放題で、反政府の者を逮捕している時代でした。彼はそれに対してこう言いました。「民進党はまだ四歳の子供です。もし間違ったことがあれば、ちゃんと教育すればよく、拳で頭を殴ることはないのです。このように殴られたら、バカになってしまいます」と。そして自分が民主運動に参加した理由については、「私は台湾の民主運動のために家を売ったり、投獄されたりするのは、次の世代に我々と同じ苦難を味合わせたくないからだ。すべては次の世代のためだ」と語りました。
 台湾は何世代かの努力によって、今やっとここまでたどり着くことができました。我々の次の世代はもはや、我々が昔経験した、歴史における誤解や寂しさ、不平等さ、コンプレックスなどに直面する必要がありません。これで我々はより広い心をもって未来を迎えることができます。
 ある日、ある新聞記者から「あなたは自分の息子にはどこの国の人になってほしいですか」と聞かれたことがあります。そこで私は彼にこう答えました。「私は彼に世界の公民になってほしいが、自分が台湾人であることは忘れてほしくない。心からそう願っている」と。
 これは私個人の期待です。これをもって今日の講演の終わりにしたいと思います。ご清聴ありがとうございました。
2007-06-30 18:56
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